「好きなことを仕事にしよう」という話に、最近すこし違和感がある。

得意で、好きで、しかも周りから必要とされる。それが揃えば最高だ。異論はない。

ただ、現実にはこういう組み合わせがある。

好きだけど、必要とされないこと。

好きじゃないけど、なぜか人よりできて、必要とされること。

最近、後者もかなり大事なんじゃないかと思っている。

「好き」は自分の内側にしかない

好きかどうかは、自分の中で完結する。誰にも確かめようがないし、他人の意見も関係ない。

それは自由でいいのだが、同時に、外からの手応えがないということでもある。

好きで続けているのに、誰にも必要とされない。反応がない。この状態は、思っているよりしんどい。しかも、しんどい理由が「好きなことをやっているはずなのに」という形で自分に返ってくるので、余計にこじれる。

一方、「なぜか人よりできて、必要とされること」には、手応えがある。

自分では大したことをしていないつもりなのに、感謝される。頼まれる。また来てくれる。この反応は、自分では作れない。外から来るしかない。

感謝の総量

仕事の価値は、突き詰めるともらった感謝の総量なのかもしれない、と思うことがある。

金額でも、肩書きでも、規模でもなく。

この見方をすると、自分が何をやるべきかの判断基準が一つ増える。

自分が何をやりたいかだけでなく、自分は何をすると人から感謝されるのか。何をすると必要としてもらえるのか。

自分の「好き」に執着するより、自分が誰かの役に立てる場所を探すほうが、結果的に早いことがある。そして、必要とされている実感は、かなり人を幸せにする。

ただし、感謝は対価とセットで

ここは、はっきり書いておきたい。

感謝だけを報酬にすると、必ず枯れる。

感謝はうれしい。でも、それだけで生活は回らないし、うれしさは慣れる。

「ありがとうと言われるからやる」を続けていると、いつのまにか断れなくなる。相手の期待に応え続けることが目的化して、自分の消耗が見えなくなる。医療でも接客でも、この形で潰れる人を何人も見てきた。

前に書いた話とつながるのだが、無限に与える人は、いずれ与えられなくなる。だから、感謝と対価はセットで受け取るべきだと思っている。

対価があるから続けられる。続けられるから、感謝の総量が増える。順番はこうだ。

需要に寄せすぎるのも危ない

もう一つ、逆側の注意も書いておく。

「必要とされること」に寄せすぎると、他人の需要に自分の人生を決められることになる。

求められるからやる、を積み重ねていくと、気づいたときに自分が何をやりたかったのかわからなくなっている。しかも、そのときには需要のほうが変わっていたりする。

前に、利己と利他は分けられないという話を書いた。純粋な利他は続かないし、純粋な利己も続かない。ここも同じで、「好き」だけでも「求められる」だけでも、片方に振り切ると倒れる。

重なりを探す

だから、僕がやりたいのは、どちらかを選ぶことではない。

自分がそこそこ好きで、人よりできて、誰かが必要としてくれる。この三つが重なっている場所を探すことだ。

そして重なりは、たいてい頭で考えても出てこない。やってみて、反応を見て、初めてわかる。

「なぜかこれだけは人より速い」「なぜかこれをやると感謝される」。この「なぜか」の部分は、自己申告では見つからない。外から返ってきて初めて気づく。

だから、判断材料を増やすには、外に出て何かをやるしかない。

好きなことを探すより、感謝された経験を思い出すほうが、たぶん早い。自分では気づいていない得意が、そこに残っている。