「IQが20違うと会話が成立しない」という話をたまに聞く。

先に書いておくと、僕はこの言い回しをあまり信用していない。20という数字に根拠らしい根拠を見たことがないし、何より、知能の高低という一本の軸で会話の成否を説明しようとするのが筋が悪いと思っている。この言い方が心地よく響いてしまうとしたら、それはたいてい、自分を上の側に置いて聞いているからだ。

ただ、この俗説が言い当てている現象自体は、たしかに存在すると思う。ぴったりくる言葉が、前提だ。

同じ言葉を使っているのに、通じない

育ちや価値観、所属してきたコミュニティが近い人のほうが、意思疎通しやすい。これは事実だと思う。

同じ言葉を使っていても、前提が違う。同じ説明を聞いても、解釈が違う。

医療の現場は、この落差が毎日むき出しになる場所だ。

「様子を見ましょう」という言葉ひとつとっても、こちらは「今の段階では治療介入より経過観察が適切だ」という判断を伝えているつもりでも、受け取る側には「何もしてもらえなかった」と響くことがある。「大丈夫です」も同じで、医学的に問題がないという意味なのに、心配を軽くあしらわれたと感じる人がいる。

どちらが悪いという話ではない。同じ日本語を、違う辞書で引いているだけだ。

だから友人関係は自然と似た人同士で集まるし、コミュニティも価値観ごとに分かれていく。辞書が近い相手といるのは、単純に疲れない。これはごく健全なことだと思う。

仕事では、そうもいかない

問題は、仕事や接客ではそうもいかないことだ。

自分とはまったく違う世界を生きてきた人と、向き合わなければならない。相手を選べない。そして多くの人が、ここで同じ問いを立てる。

「どうしたら分かり合えるのか」

この問いの立て方が、消耗の原因なんじゃないかと最近思っている。

分かり合うことをゴールに置くと、分かり合えなかった時点で失敗になる。だから説明を重ねる。言い方を変える。それでも届かないと、今度は相手のせいにするか、自分を責めるかのどちらかに落ちる。どちらもしんどい。

世の中には、説明すれば理解してもらえる人もいる。何度説明しても理解し合えない人もいる。後者を変えようとすると、ひたすら消耗する。

分かり合わなくても、成立する

でも、よく考えると、仕事において本当に必要なのは分かり合うことではない。

必要なのは、合意できる行動を見つけることだ。

相手がなぜそう考えるのかを心の底から理解できなくても、「じゃあ次はこうしましょう」が一致すれば、仕事は前に進む。診療でいえば、僕の判断の根拠を100%納得してもらえなくても、次にどうするかについて合意できれば、その日の診療は成立する。

分かり合うことは、そこに至るための手段のひとつでしかない。使える場面では使えばいいが、使えない相手にそれ以外の道がないと思い込むから、袋小路に入る。

ゴールを「合意できる範囲を見つけること」に置き直すと、やることが変わる。相手の世界観を書き換えようとするのをやめて、重なっている部分を探しにいくようになる。だいたいの場合、重なりはゼロではない。

「分かり合えない」を、相手の欠陥にしない

ここで自分に釘を刺しておきたいことがある。

「この人とは分かり合えない」という結論は、非常に便利で、非常に危ない。

面倒な相手を切り捨てる言い訳として使えてしまうからだ。本当は自分の説明が下手なだけかもしれない。相手の前提を知る努力を、まだ一度もしていないかもしれない。それを全部すっ飛ばして「分かり合えない人」に分類すると、楽になる代わりに、自分が何も学ばなくなる。

だから僕は、こう考えるようにしている。

分かり合えないのは、相手の能力の問題ではなく、前提の距離が遠いという事実にすぎない。遠いものを近づけるにはコストがかかる。そのコストを払う場面と、払わない場面がある。それだけのことだ。

上下ではなく、距離。この置き換えをするかどうかで、同じ結論でも意味がまったく変わる。

受け入れたほうが、優しくなれる

そして不思議なことに、「この人とは分かり合えない」と受け入れたほうが、相手に対して丁寧になれる。

分かり合えるはずだと思っていると、通じないたびに苛立ちが生まれる。なぜ分からないんだ、と。その苛立ちは、どれだけ隠しても伝わる。

最初から前提が違うと分かっていれば、苛立ちようがない。辞書が違うのだから、言葉を選び直せばいいだけだ。むしろ、こちらのほうが落ち着いて説明できる。

大事なのは分かり合うことではなく、「この人とは分かり合えない」ということを、相手への評価としてではなく、ただの事実として受け入れることなのかもしれない。

そのうえで、それでも重なる部分を探しにいく。僕はたぶん、それを仕事と呼んでいる。