若い人が挑戦しなくなった、という話をときどき聞く。
僕は、そうは思わない。
挑戦する人が減ったのではなく、挑戦するための条件が上がったのだと思っている。
条件が変わった
かつての日本には、雑に挑戦できる余地があった。
円が強かった時期には、身ひとつで海外に出ていくことができた。家賃も物価も今より軽く、アルバイトでもどうにか食えた。ハードワークを厭わないなら仕事はある、という意味では、ある種フェアな環境だった。
今は違う。
物価は上がり、賃金の伸びはそれに追いついていない。円安で海外は遠くなった。家賃は重く、生活の固定費は高い。失敗したときに落ちる先が、以前より深くなっている。
つまり、挑戦するのに貯金と覚悟が要る時代になった。身ひとつでなんとかなる社会ではなくなっている。
だから、選抜されている
その結果として起きているのは、挑戦者の減少ではなく、選抜だと思う。
元手がある人。実家に戻れる人。失敗しても食わせてくれる誰かがいる人。あるいは、リスクの計算がどこか壊れていて、無茶ができてしまう人。
このどれかに当てはまらないと、そもそも一歩目が踏み出せない。
生きているだけでコストの高い社会では、夢を見ようとすること自体が、ある種の贅沢品になってしまう。
自分がやれたのは、条件が揃っていたからだ
ここで、自分の話をしておきたい。
僕は20歳のときに会社を作った。医学生のまま起業して、休学と留年を駆使して、そこそこ好き勝手にやっていた。それを「行動力があった」と言われることがある。
でも、正直に振り返ると、そうではない。
失敗しても死なない条件が、たまたま揃っていた。
当時、間借り先の会社の社長が、100万円を返済期限なしで貸してくれた。医学部にいたので、最悪でも免許を取れば食えるという保険があった。留年しても復学できる家庭環境だった。東京で困れば、飯を食わせてくれる大人が何人もいた。
この条件を全部外して、同じことを20歳の僕にやれと言われたら、たぶん動けていない。
だから、僕が動けたのは意志が強かったからではない。落ちても浅いところで止まる設計になっていたからだ。
「動け」と書いてきたことについて
このブログでは、動けとか、すぐ会いに行けとか、避ける自由を使いすぎるなとか、そういうことを何度も書いてきた。
それらは今も本気で思っている。でも、あれは全部条件付きの話だった。
移動できる身体と時間と金があること。失敗しても生活が壊れないこと。次の月の家賃を心配しなくていいこと。
その条件を持っている人に向けて「動け」と言うのは意味がある。持っていない人に同じことを言うのは、ただの無理解だ。前にも書いたが、動ける立場にいることを自分の実力だと勘違いするのが、いちばんみっともない。
「自己責任」という言葉
だから、この状況を自己責任という言葉で切り捨てるのは、かなり不誠実だと思っている。
自己責任という考え方そのものを否定したいのではない。自分の選択に責任を持つのは当然だ。
ただ、その言葉は、責任を負える条件が揃っている人ほど言いやすいという性質を持っている。落ちても浅い人が、落ちたら深い人に向かって使う。そこに構造の非対称がある。
そして厄介なのは、言っている本人がその非対称に気づきにくいことだ。自分がうまくいった理由を、自分の資質として説明するほうが気持ちがいいので。
僕も、意識しないとそちら側に立っている。
それでも、構造論を免罪符にはしない
そのうえで、逆側にも一つ書いておきたい。
構造の話は、正しいがゆえに、動かない理由としても機能する。
社会が悪い、時代が悪い、条件が違う。全部本当だ。本当だからこそ、そこで思考が止まると、何も起きなくなる。
条件が厳しいという認識は、他人を裁かないために持つものであって、自分が動かない説明として使うと、その瞬間に別のものになる。この使い分けだけは、自分の中で守っていたい。
条件を持っている側が、何をするか
結局、僕が考えたいのはここだ。
僕は今、条件を持っている側にいる。金も、時間も、失敗しても戻れる場所もある。
だとすれば、やるべきなのは「もっと挑戦しろ」と発破をかけることではなく、挑戦のコストを下げる側に回ることだと思う。
雇うこと。給料を払うこと。失敗しても致命傷にならない場所を用意すること。誰かが無茶をするときに、落ちる先を少しだけ浅くしてやること。
かつて僕に100万円を貸してくれた人は、たぶんそういうことをしていたのだと思う。あのときは何も分かっていなかったが、今なら意味がわかる。
条件が上がった社会でできることがあるとすれば、自分の周りだけでも条件を下げることだ。説教より、そちらのほうがずっと効く。
