「自分のため」と「社会のため」は、思った以上に重なっている。

たとえば、飛び抜けた選手が自分の限界を試すことだけに集中している姿が、結果として大勢の人に希望や熱量を与えることがある。本人が誰かを励まそうとしたわけではなくても、そうなる。大谷翔平を見ていて、そう感じる人は多いと思う。

一方で、最初から「社会に還元したい」という動機で動く人もいる。こちらも当然ある。

どちらが正解という話ではない。ただ、その分岐がどこで生まれて、本人がどう折り合いをつけているのかというところに、その人の思想や美学が出るのだと思う。

自分の動機を棚卸ししてみる

きれいごとを言う前に、自分の動機を振り返ってみる。

僕が医学部に行った理由は、以前書いた。祖父を見ていて「健康はすべての原資だ」と思ったから、というものだ。

言葉にすると立派に聞こえる。でも実際のところ、あれは社会のためではなかった。健康が大事らしい、だったら医療の分野が面白そうだ、という自分の興味の話でしかない。実際、僕は「医師になりたい」と思ったことが人生で一度もない。

会社を作ったときもそうだ。飲み会で語った話が数日後に仕事の依頼になり、会社を作れと言われた。そのとき僕が考えたことは「面白そうだ」だけだった。社会の課題を解決しようとは、たぶん一秒も思っていない。

今やっている仕事にしても、「医療の受診体験を変えたい」と言っている。これは半分本当だが、もう半分は、自分が現場で不便だと感じて腹が立っていたからだ。待ち時間の構造にしても、紙とスキャナの往復にしても、まず自分が嫌だった。

つまり、僕がこれまでやってきたことの大半は、利他の顔をした利己だったということになる。

それでいい、と思っている

こう書くと自己批判のように見えるかもしれないが、そうではない。むしろ、それでいいと思っている。

理由は単純で、純粋な利他は続かないからだ。

社会のためだけにやっていることは、しんどくなった瞬間に手放される。誰かのため、という動機は、その誰かが感謝してくれなかったとき、あるいは思ったほど成果が出なかったときに、支えを失う。人間はそこまで強くない。少なくとも僕は強くない。

自分が面白いと思っていることには、その脆さがない。うまくいかなくても面白いし、感謝されなくても続けられる。結果として、長く続く。そして長く続いたものだけが、最終的に誰かの役に立つところまで届く。

逆に、利己だけでも続かないとも思う。

自分ひとりの快適さのためなら、クリニックを作ったり人を雇ったりする必要はまったくない。もっと楽な方法がいくらでもある。面倒を引き受ける理由は、やはり自分の外側にある。

だから、どちらか片方で生きることは、たぶん不可能なのだと思う。

分岐は、動機ではなく持続に出る

じゃあ、その二つはどこで折り合うのか。

最近思うのは、動機の純度で判定しないほうがいいということだ。

「これは本当に社会のためか、それとも自分のためか」を問い詰めても、答えは出ない。人間の動機は、そんなにきれいに分離できていない。分離しようとすると、たいてい自分に嘘をつくことになる。社会のためだと言い聞かせるか、逆に全部エゴだと斜に構えるか。どちらも実態から遠い。

代わりに僕が見るようにしているのは、それが続いているかどうかだ。

続いているなら、そこには利己が含まれている。自分が面白いと思っていなければ、とっくにやめているはずだから。そして、続いた結果として誰かの役に立っているなら、利他としても成立している。

順番はどちらでもいい。利己から始まって利他に届くこともあれば、利他から始まって途中で面白くなることもある。大事なのは、どちらか一方だけの状態で長く走らないことだと思う。

片方だけになった瞬間、その活動はたいてい終わりに向かう。使命感だけで走っている人は擦り切れるし、自分の快楽だけで走っている人は、そのうち誰にも必要とされなくなる。

今のところの整理

僕は、自分の動機がかなり利己的であることを認めたうえで、それが結果として誰かの役に立つ形になるように設計する、というやり方を選んでいる。

美しくはない。でも、自分に嘘をつかずに長く続けられる方法としては、今のところこれが一番マシだと思っている。

そして、この整理の仕方自体に、たぶん自分の美学が出ている。

あなたは、これをどう位置づけていますか。