「空気を読む」という言葉には、まったく別の二つのことが混ざっている。
ひとつは、読む能力。その場に何が流れているか、誰が困っているか、今この話題を出すとどうなるかを察知する力。
もうひとつは、それに従うかどうかの選択。
この二つは別物なのに、日本語では一語で扱われている。だから「空気を読まない人」と言ったときに、察知できない人と、察知したうえで従わない人が、同じ箱に入ってしまう。
僕が強いと思うのは、後者だ。
読める。でも、必要なら従わない。読めていないのとは、まったく違う。
感じよく、でも遠慮なく
コミュニケーションで本当に強いのは、ちゃんと感じよく、でも遠慮なく言う人だと思っている。
会議でも飲み会でも、この型の人は絶妙に爪痕を残していく。言いにくいことを言っているのに、場が壊れない。むしろ空気が動く。
なぜ壊れないかというと、読んでいるからだ。今この場で誰が何を気にしているかを把握したうえで、それでも言うべきことを、言い方だけ調整して出している。
読まずに言う人は、ただ場を壊す。読んで従うだけの人は、何も起こさない。読んだうえで従わない人だけが、場を前に動かせる。
前に、素直と従順は違うという話を書いた。一度受け取ったうえで、おかしいと思ったら言う人が理想だ、と。あれと同じことを、別の角度から言っているのだと思う。
無害な人は、記憶に残らない
一方で、ものすごく丁寧で、当たり障りがなく、全方位に気を遣っている人は、不思議なくらい記憶に残らない。
理由は、たぶん無害すぎるからだ。
波風が立たないので、記憶に引っかかるところがない。誰も不快にしないが、誰の中にも残らない。
そして、思い出されない人には、次の話が来ない。何かを一緒にやろうというとき、人は思い出せる人の中から選ぶ。どれだけ有能でも、想起されなければ選択肢に入らない。
これは人格の評価ではなく、単純な仕組みの話だ。丁寧であることは美徳だが、丁寧なだけでは、次に呼ばれる理由にならない。
ただし、印象を目的にすると事故る
ここが、この話の一番危ないところだと思う。
「印象に残ること」自体を目的にした瞬間に、全部おかしくなる。
爪痕を残すために、わざと反対する人になる。会議で一つだけ違う意見を言うのが自分の役割だと思い込む。鋭く見えることを優先して、話の中身が薄くなる。
この型の人は、一度そう見られると、二度と意見を真剣に聞いてもらえなくなる。「またあの人が何か言っている」で処理されるようになる。逆張りは、短期的には目立ち、長期的には無視される。
残るのは、態度の派手さではなく、意見の中身だ。
言うべきことがあるから言う。ないときは黙る。この順番が守られている限り、爪痕は勝手に残る。逆にすると、ただの面倒な人になる。
何を言うのか
じゃあ、何を言えばいいのか。
前に採用の話を書いたとき、「ちゃんと相手の話を聞いて、自分の言葉で返せる」ことが一番大事だと書いた。これがそのまま答えになると思う。
どこかで聞いた正論でもなく、その場の空気に合わせた無難な相槌でもなく、自分が実際にそう思っていることを、自分の言葉で言う。
これができていれば、内容が的外れでも、たいてい印象に残る。逆に、どれだけ正しくても借り物の言葉は流れていく。
遠慮について
最後に、遠慮の位置づけを整理しておきたい。
遠慮は、相手のためにするものだと思われている。でも実際には、自分が嫌われないための保険として使われていることのほうが多いのではないか。
言うべきことを言わないのは、相手にとって親切ではない。情報が渡らないだけだ。渡していれば防げたことが、渡らなかったせいで起きる。それは優しさではない。
もちろん、言わないほうがいい場面もある。相手が受け取れる状態にないとき、言う場所が適切でないとき。それは判断であって、遠慮とは違う。
遠慮は、消えるための技術ではない。自分の存在を薄めるために使っているなら、それはただの自己否定だと思う。
読む。そのうえで、従うかどうかは自分で決める。それくらいのわがままは、持っていていい。
