20代のうちに、本当に厳しいことを言ってくれる大人は、ほとんどいない。
理由は大きく2つあると思う。
ひとつは、「まだ若いからしょうがない」と最初から期待値を下げられていること。もうひとつは、「厳しいことを言うとハラスメントになる」と避けられていること。
どちらの場合も、結果は同じだ。言われるべき指摘が届かないまま、本人だけが「できている」と思っている状態になる。
下駄を履かされていることに、履いている側は気づけない。
怖いのは、優しくされることではない。正当に評価されないまま年を重ねて、あるとき突然、市場に出て評価されることのほうだ。
言わない側の理由は、たいてい自分の都合
ここからは、言われる側ではなく、言わない側の話を書く。僕はもう完全にそちら側にいるので。
正直に書くと、若い人に本当のことを言わない理由は、相手のためであることがほとんどない。
言えば気まずくなる。関係が悪くなるかもしれない。やる気を失わせるかもしれない。ハラスメントだと受け取られるリスクもある。そして、言ったところで自分には何の得もない。
つまり、言わないほうが自分にとって安全だから言わない。それだけの話だ。
「あの子はまだ若いから」というのは、その判断を正当化するための後付けであることが多い。少なくとも僕は、自分の中にその動きがあるのを何度も見つけている。
だから、これは若い人の問題ではなく、上の世代の側の問題だと思っている。
「ハラスメントになるから言えない」について
もうひとつ、はっきり書いておきたい。
「厳しいことを言うとパワハラになる」という言い分は、多くの場合、指摘とハラスメントを混同している。
必要なのは厳しさではなく、正確さだ。
行動について言う。人格については言わない。事実を言う。感情はぶつけない。相手が直せることを、直せる粒度で伝える。人前ではやらない。
これらを守っていれば、内容がどれだけ耳に痛くても、ハラスメントにはならない。逆に、これを守らずに声を荒げていた人が「最近は言えなくなった」と嘆いているのだとしたら、それは規制の問題ではない。
厳しくすることが指導だと思っている人がいるから、指摘そのものが避けられるようになった。そう考えると、いま20代が下駄を履かされているのは、上の世代がやってきたことの結果でもある。
気づいた人ができること
そのうえで、若い側にできることもある。
自分が下駄を履かされているかもしれない、と疑えるだけで、かなり優秀だと思う。そのうえで、僕が有効だと思うことを3つ書く。
ひとつ、結果が数字や事実で出る場に身を置く。人の評価は甘くなるが、結果は甘くならない。売上でも、コードの動作でも、患者さんの反応でもいい。人の口を経由しない評価が一つあるだけで、自分の位置が見える。
ふたつ、自分より明らかに上手い人の近くで作業する。教えてもらう必要はない。同じ仕事を見ていれば、差は勝手にわかる。説明されるより速い。
みっつ、聞き方を変える。「どこを直せばいいですか」と聞くと、たいてい「よくできてるよ」で終わる。答えるコストが高いからだ。そうではなく、「ここはこう考えてこうしましたが、どう見えますか」と具体で聞く。範囲が狭いと、人は本当のことを言いやすくなる。
環境を変えられるなら、シビアな場所に行くのが一番早い。ただ、誰もがすぐに転職できるわけではない。だから、今いる場所でも取りに行ける方法があるとは書いておきたい。
言う側の責任
結局のところ、僕が書きたかったのはこちらだ。
指摘が届かない構造は、若い人が甘えているから生まれているのではなく、言う側がコストを払わなくなったから生まれている。
そして僕は、コストを払わない側になりやすい立場にいる。何も言わなければ、いい人でいられる。相手も気分よく働ける。短期的には全員が快適だ。
でも、それは数年後にその人が困る形で回収される。
だから、言うべきときには言う。厳しくではなく、正確に。そして、言った以上は相手が直せるところまで付き合う。
そこまでやらないなら、最初から言わないほうがマシだと思っている。
