怒られるというのは、本当は相当に貴重なことだ。
そして、年齢を重ねるほど、それが手に入らなくなる。
部下は言えない。言ったところで得がないし、リスクだけがある。上司はもういない。取引先は言わない。友人も、仕事の話にはあまり踏み込んでこない。
その結果、自分を疑う機会が、静かに消えていく。
枯れるのは「怒り」ではなく「正確な指摘」
ここは正確に書きたい。
貴重なのは、怒られること自体ではない。声を荒げられることに価値はないし、感情をぶつけられて伸びる人はほとんどいない。
貴重なのは、本当のことを言ってもらえることだ。
その判断はずれている。その説明はわかりにくい。その態度は感じが悪い。そういう指摘は、たいてい言うほうにコストがかかる。気まずいし、関係が悪くなるかもしれないし、言った側に何の得もない。
だから、コストを払ってでも言ってくれる人は、そもそも少ない。そのうえ立場が上がると、払うコストがさらに上がる。結果として、誰も言わなくなる。
怒られなくなったのは、自分が正しくなったからではない。言うコストが上がっただけだ。ここを取り違えると、あっという間に裸の王様になる。
これは、他人に厳しくする理屈ではない
ひとつ、はっきり書いておく。
「怒られることには価値がある」という話は、自分が受け取る側の話であって、他人に浴びせる側の理屈にしてはいけない。
経営者がこれを言い出すと、途端に危なくなる。厳しく当たることが相手のためだ、という便利な正当化ができてしまうからだ。厳しくされて伸びる人もいるが、壊れる人もいる。そして誰が壊れるかは、やってみるまでわからない。
指摘は、正確であることに価値がある。強さではない。
だから僕は、自分に対しては「もっと言ってほしい」と思っているし、人に対しては「正確に、必要な分だけ」と思っている。この二つは矛盾していない。
否定を怖がりすぎる、という話について
そのうえで、多くの人が否定されることを避けすぎているとも思う。僕自身も含めて。
自分の考えが間違っているかもしれない、という可能性を検証しに行くのは、単純にしんどい。だから、賛成してくれる人と話す。うまくいっている話をする。うまくいっていない話は、少し良く見えるように加工して話す。
気持ちはよくわかる。でも、そうやって守ったプライドは、鈍る一方だ。
前に、素直さは学習速度の話だと書いた。指摘を一度そのまま受け取れる人は伸びる、と。あれは他人の話として書いたが、当然、自分にも同じことが当てはまる。そして立場が上がるほど、受け取る機会そのものが減るのだから、より意識的に取りに行かないと差が開く。
痛みを避けるのではなく、取りに行く。そこまで完成された人間ではない、という前提を保ち続けるほうが、結局は安全だと思う。
自分で仕込むしかない
じゃあどうするか。誰も言ってくれないなら、言ってもらえる状態を自分で作るしかない。
やっていることは、大したことではない。
判断を人に説明して、おかしいと思ったら言ってほしいと明示的に頼む。反対意見が出たときに、その場で反論せずに一度持ち帰る。言いにくいことを言ってくれた人には、その内容が正しいかどうかとは別に、言ってくれたこと自体に礼を言う。
最後のやつがけっこう効くと思っている。指摘した人が損をした、と感じる経験を一度でもすると、その人は二度と言わない。そして、その一人が黙った瞬間に、周りも黙る。
前に、素直と従順は違うという記事を書いた。従順な人だけの組織は、経営者の判断ミスがそのまま実行される組織になる、と。あれは採用の話として書いたけれど、本当は自分の側の問題でもある。止めてくれる人を残せるかどうかは、止められたときの自分の態度で決まる。
怒られた経験の多さについて
最後に一つだけ、元の考えから修正したことがある。
「怒られた経験が多い人ほど強い」とは、今は思っていない。
理不尽に怒鳴られ続けた人が強くなるわけではない。むしろ、萎縮して発言しなくなることのほうが多い。
強いのは、怒られた回数が多い人ではなく、指摘を受け取って動かした回数が多い人だと思う。回数の問題ではなく、そのあとに何をしたかの問題だ。
だとすれば、僕がすべきなのは、耐性を自慢することではない。言ってもらえる状態を保ち続けることのほうだ。
誰も怒ってくれなくなった、というのは、成熟の証ではない。ただの警告灯だと思っている。