前に、ペーパーテストが測っているものについて書いた。
答えのある問題に対して、決められた時間内に、できるだけ速く正答を出す。
ペーパーテストが測っているのは、要するにこれだけだ、という話をした。
最近よく考えるのは、この能力がまさに今、機械に置き換わりつつあるということだ。人間の能力のうち、最も測りやすく、最も評価されてきた部分から順に、代替が始まっている。
効率のために雇うという前提
これまで、人を雇う理由の大部分は効率だった。
一人でできる量には限界がある。だから人を増やして分担する。処理量を増やすために、人数を増やす。極めて素朴な足し算だ。
そして、その足し算の世界では、一人あたりの処理速度と正確性が価値に直結した。速く、正確に、安定して同じ品質を出せる人が優秀とされた。ペーパーテストの物差しと、労働市場の物差しがほぼ一致していた時代だ。
僕自身、そういう前提で採用を考えていた時期がある。この作業を回すために何人必要か、という発想だ。
でも、ここ数年で前提が崩れ始めた。
AIとソフトウェアで代替できる領域が、想像していたよりずっと速く広がっている。ITの領域は特に顕著だが、医療のようなアナログの塊のような分野ですら、確実に変わり始めている。うちで言えば、これまで人がやるしかなかった転記や集計、書類の下書きの類は、もう人がやる仕事ではなくなりつつある。
正確で、疲れず、機嫌のムラがなく、24時間動く。効率という一点で勝負するなら、人間に勝ち目はない。
人間の「ムラ」について
ここで、少し正直な話を書いておきたい。
人間には必ずムラがある。体調があり、感情があり、その日の出来事に影響される。同じ人でも、朝と夕方で出力が違う。これは欠陥ではなく仕様だ。僕自身がまさにそうで、自分のパフォーマンスの不安定さには何度もうんざりしている。
効率だけを見るなら、このムラはコストでしかない。だから多くの組織が、人間をなるべく機械のように働かせようとしてきた。マニュアル化し、標準化し、属人性を排除する。それは合理的な努力だったと思う。
でも、機械の仕事を機械がやるようになるなら、その努力の意味は変わる。人間を機械に近づける方向の最適化は、これから急速に価値を失っていく。
じゃあ、何のために雇うのか
そうなると、雇用そのものの意味が変わる。
効率のために人を雇う時代が終わるとしたら、人を雇うことは、必要に迫られた行為ではなくなる。選んでやる行為になる。
ある種の贅沢であり、余白だ。
贅沢という言葉を、否定的な意味では使っていない。効率で説明できないものにコストを払える、という状態のことだ。そして、効率で説明できないものの中にこそ、僕が前の記事で書いた「ペーパーテストでは測れない能力」が全部入っている。
人を安心させるのがうまい人。誰とでも自然に仲良くなれる人。細かい違和感にすぐ気づける人。場の空気を一瞬で明るくできる人。
これらは、答えのある問題を速く解く能力ではない。だから測れないし、だから代替されにくい。効率のための雇用が終わったあとに残るのは、まさにこの領域だと思っている。
診察室でも同じことを感じる。検査値の解釈や鑑別の候補出しは、いずれ機械のほうがうまくなるだろう。でも、緊張している人の肩の力を抜くこと、言いにくいことを言える空気を作ること、その人が本当は何を心配しているのかを察することは、当面のあいだ人間の仕事として残る。
気をつけたいこと
この議論には、危ない使い方がある。
「効率で測ると人間はAIに勝てない」という話は、そのまま「効率で測って劣る人は要らない」という結論に接続できてしまう。経営者がこの理屈を握ると、人を切る根拠として非常に便利だ。
でも、それは論理として逆立ちしている。
効率のための雇用が終わるという話は、効率という物差しで人を測るのをやめるという話のはずだ。それなのに、その物差しを使って人を選別するのに使うなら、何も更新されていない。
もうひとつ。「うちはAIで効率化したので人が要らない」と言う会社は、たいてい効率化しか設計していない。空いた余白を何に使うかを決めていないと、余白は生まれずに、ただ人数が減るだけになる。それはコスト削減であって、雇用の意味の変化ではない。
僕が興味があるのは後者のほうだ。機械に渡せるものを渡した結果、人間が何をやる時間が増えるのか。そこを設計しない限り、AIを入れる意味は半分しかない。
今のところの結論
効率のために人を雇う時代は、たぶん終わりつつある。
これからは、人を雇うこと自体が、ある種の贅沢であり余白になる。そしてその余白に何を置くかが、その会社が何を大事にしているかの表明になる。
うちが何を置くかは、まだはっきり言語化できていない。ただ、機械にできることを人にやらせて満足するような使い方だけはしたくない、とは思っている。
今のところの結論は、そんな感じだ。