「移動距離が人を変える」の、正確なところ

移動距離と、人間としての変化量は、かなり比例していると思っている。

理由は単純で、移動すればするほど「あたらしい」に出会う確率が上がるからだ。

新しい場所に行けば、環境が変わる。初対面の人に会えば、前提が違うので思考が揺さぶられる。知らない景色を見て、知らない空気を吸うと、脳も感情も勝手に動く。

逆に、同じ場所で、同じ人と、同じ毎日を過ごしていると、入力が更新されない。入力が更新されなければ、考え方も感情も鈍っていく。

これは体感としてかなり確からしい。実際、環境が長く固定されている人の話を聞くと、思考の形が数年前とほとんど変わっていないことがある。悪意はまったくなく、ただ更新の機会がなかったのだと思う。

ただし、偉いのは距離ではない

ここまでが実感なのだが、この話は言い方を間違えると、かなり雑になる。

「移動距離が長い人ほど優れている」という主張として広めると、事実として怪しいし、しかも意地が悪い。

偉いのは距離ではなく、新しい入力に晒されることのほうだ。移動は、それを最も確実に強制してくれる手段というだけの話にすぎない。

なぜ強制が必要かというと、人間は放っておくと必ず入力を節約するからだ。予測できる環境では、脳は省エネモードに入る。同じ道を通り、同じ店に入り、同じ人と話す。快適だし、効率もいい。でもその状態では、既にある考えが強化されるだけで、更新はされない。

移動は、その省エネを物理的に不可能にする。知らない街では、道も、店も、人も、全部処理しないといけない。無理やり頭が動く。移動の価値は、意志に頼らずに更新が起きることにあると思っている。

動けない人がいる

そのうえで、書いておかないといけないことがある。

移動できるかどうかは、かなりの部分、その人の環境で決まる。

介護をしている人。持病があって長距離の移動が難しい人。小さい子どもがいる人。経済的に旅費を出せない人。仕事の性質上、その場を離れられない人。

医療の現場にいると、動きたくても動けない人に日常的に会う。その人たちに向かって「移動距離が短い人間は成長しない」と言うのは、事実として不正確なだけでなく、単純に失礼だと思う。

そして実際、ほとんど動かずに更新し続けている人はいる。読むもので更新する人、話す相手で更新する人、同じ場所を掘り下げることで更新する人。職人や研究者には、その型の人が多い。

「移動距離=成長」を信仰にしてしまうと、動ける立場にいることを、自分の実力だと勘違いする。これが一番みっともない。自由に動ける身体と時間と金があることは、まず幸運だ。

だから正確に言い直すと、こうなる。

同じ入力に安住しないこと。そして、動けるなら、動くのが一番手っ取り早い。

風景ではなく、たぶん人

もう一つ、自分の経験から言えることがある。

移動して何が効いたかを振り返ると、風景よりも人の割合がかなり高い。

見たことのない景色は、たしかに気分がいい。でも数年後まで残って自分の考えを変えているのは、たいてい、その場所で会った人との会話のほうだ。

前に、ひとりで焼き鳥を食べていて、結局は誰と過ごすかで満足度が決まるのかもしれない、と書いた。あれと同じ話だと思う。移動の価値も、たぶん最終的には人にある。

だから僕にとっての移動は、観光ではなく、会いに行くことに近い。

なぜ僕が動くのか

正直に書くと、僕がやたらと動くのは、成長のためではない。

以前書いたことだが、学生の頃、誘ってくれた人に折り返さないまま、その人が亡くなってしまったことがある。何を話したかったのかは、もう永遠にわからない。

それ以来、会いたい人にはできるだけすぐ会いに行くようにしている。行きたい場所にもすぐ行く。

だから僕の移動は、投資でも自己啓発でもなくて、後悔から来ている。結果として新しい入力が増えて、考えが更新されているのだとしたら、それは副産物みたいなものだ。

副産物にしては、ずいぶん効いていると思うけれど。

まとめ

成長したいなら動け、という言い方は、少し乱暴だ。動けない人もいるし、動かずに更新している人もいる。

でも、動ける立場にいるのに動いていないなら、これほどもったいない話もない。

人は、風景と会話で変わる。そして会話のほうが、たぶん効く。