先に、相手の言い分を認めるところから始めたい。
日本で「精神論」という言葉が嫌われているのには、まっとうな理由がある。
練習中に水を飲ませない。気合が足りないと言って怒鳴る。人手が足りない現場を「使命感」で回す。当直明けにそのまま外来に立たせる。サービス残業を熱意の指標にする。
これらは全部、精神論の名前で行われてきた。そして共通しているのは、それが常に他人に向けて使われたということだ。
言う側にコストがなく、言われる側だけが負担する。この構造がある限り、精神論という言葉が警戒されるのは当然だと思う。僕自身、医療現場でその使われ方を何度も見てきたし、前に書いた記事でも、現場の我慢で品質を成立させる仕組みは必ず壊れる、という話をした。
そのうえで、それでも書きたいことがある。
技術と理屈が一定を超えたあと
自分の実感として、技術や理屈が一定の水準を超えたあと、最後に差がつくのは気持ちの部分だと思っている。
スポーツでもそうだし、経営でもそうだ。
戦略が優れているかどうかで決着がつく局面は、実はそれほど多くない。たいていの場合、やるべきことは最初からわかっている。わかっているのに続かない、という形で差がつく。
うまくいかない期間に腐らずにいられるか。逃げたくなる場面で踏みとどまれるか。誰も見ていないところで手を抜かずにいられるか。決めたことを、決めたとおりにやり続けられるか。
一流の選手も、一流の経営者も、どこかのタイミングでこの種の話を本気で語り出す。あれは根性論ではなく、そこが実際に効くと知っているからだと思う。
ただし、それは自分にだけ課すもの
ここが、この記事でいちばん書きたいところだ。
精神論は、自分に課す限りにおいては、たぶん正しい。他人に強いた瞬間に、別のものになる。
同じ「腐らずに続けろ」という言葉でも、自分に言うのと、部下に言うのとでは、まったく意味が変わる。
自分に言う場合、コストを払うのは自分だ。判断も自分でできる。無理だと思えばやめられる。
他人に言う場合、コストを払うのは相手で、言った側は何も失わない。しかも上下関係があると、相手には断る自由がない。相手の体調も、家庭の事情も、限界の位置も、こちらにはわからない。
だから僕は、この考え方を人に説くことはしないようにしている。自分が続けるための原理として持っておくだけだ。
言い方を変えると、精神論は個人の内側で使う道具であって、組織を回すための道具ではない。組織は仕組みで回すべきで、気持ちで回している時点でどこかが壊れている。この2つを混ぜてはいけない。
「精神論」より「自制」
そもそも、精神論という言葉が悪いのかもしれない。
僕が言いたいことは、気合とか根性ではなくて、自制と継続だ。
決めたことを続ける。感情に流されて判断を変えない。うまくいっていない時期にも、やるべきことの水準を下げない。調子が悪い日でも、最低限を出す。
これらは精神の強さというより、技術に近い。実際、続けるための仕組みを作れる人ほど、続いている。意志だけで戦っている人は、たいてい途中で燃え尽きる。
だから「気持ちが大事」という結論は、正確には「気持ちに頼らずに済む設計をしたうえで、それでも残る部分は気持ちで持たせるしかない」ということなのだと思う。順番が逆になると、ただの根性論になる。
ズルは、なぜ戻ってくるのか
小賢しい手段で一時的に結果を出しても、あとで揺り戻しが来る、という感覚もある。
これは精神論というより、単純な構造の話だと思っている。
近道で出した結果は、再現できない。再現できないものは積み上がらない。積み上がらないものの上に次を建てると、どこかで崩れる。それだけのことだ。
そして厄介なのは、一度うまくいってしまうと、次も同じ方法を選びたくなることだ。うまくいった経験ほど、学習を止める。
見えないところで自分を整えるほうが、結果的に速い。派手な戦略より、そちらのほうが効く。これは信条というより、単に何度か失敗して学んだことだ。
最後に、一つ引き下げておく
元々、僕はこの話を「精神論をバカにする人は、やり抜いた経験がない」という形で考えていた。
でも書きながら、これはよくないと思った。
その言い方をすると、反対する人を全員「経験不足」で片づけられてしまう。反論できない形にしてから主張するのは、議論としてずるい。しかも、精神論に痛い目を見せられてきた人ほど、それを嫌う理由がある。その人たちの経験を否定することになる。
だから、こう書き直しておきたい。
精神論は、自分に対して使う分には、たぶん有効だ。ただしそれを人に向けた瞬間に、これまで散々批判されてきたものと見分けがつかなくなる。
自分を磨くことが最短距離だ、というのは今も思っている。ただそれは、自分についてだけ言えることだ。