先に書いておくと、悩みや苦しさを吐き出すこと自体は、まったく問題ない。むしろ必要だと思っている。抱えたまま一人でいるほうが、たいてい悪い方向に行く。

問題は、そこではない。

吐き出すことと、同じ話を繰り返すことは、別のものだ。

一周して同じ結論に戻る会話

前者は、外に出したことで少し軽くなる。話しているうちに、自分でも気づいていなかった論点が見つかったりする。

後者は、そうならない。

同じ登場人物が出てきて、同じ理不尽が語られ、同じ結論に戻る。「まあ、変わらないよね」で終わって、次の機会にまた同じ話が始まる。

一回ごとは楽になる。でも、通算では何も動いていない。むしろ、その物語の輪郭がどんどん硬くなっていく。

これが習慣になった場が、共感ではなく共沈になる。

一緒に沈んでいるだけなのに、連帯している感覚だけは得られる。だから居心地がいい。そして居心地がいいから、抜けにくい。

何が削られるのか

こういう場に長くいると、何が起きるか。

一番大きいのは、因果の型が固定されることだと思う。

うまくいかない理由を説明するとき、いつも同じ形の説明が出てくるようになる。会社が悪い。上司が悪い。時代が悪い。運が悪い。

これらは往々にして事実を含んでいる。含んでいるから厄介だ。事実である以上、反論しにくい。でも、その説明の型に慣れると、自分に打てる手がある場面でも、それが見えなくなる。

思考も、語彙も、視野も、その型に合わせて狭くなる。そして知らないうちに、自分の人生の難易度が上がっている。

ただし、否定はしない

ここは慎重に書きたい。

僕は、愚痴を言う人を見下したくない。

人が愚痴に沈むのは、たいてい余裕がないときだ。仕事がきつい、体調が悪い、家庭が大変、金がない。余裕がなくなると、人は視野が狭くなり、他責の説明に寄る。これは性格ではなく、状態だ。

僕にもその時期があった。同じ話を、同じ相手に、同じ結論で何度もした記憶がある。あのとき聞いてくれた人がいたから、たぶん持ちこたえた。

だから、「吐き出せる場所がない」ほうが、よほど悪い。吐き出す場所しかない状態が問題なのであって、吐き出すこと自体が問題なのではない。

もう一つ。うまくいっている人が話を聞いてくれるのは余裕があるからだ、という見方もできる。でもそれを「優しさの仮面」と切り捨てるのは、たぶん違う。余裕があるときに人の話を聞けるというのは、単純に良いことだ。自分が余裕のあるときにそれをやればいい、という話でしかない。

「抜け出すために語る」とは

じゃあ、どう語ればいいのか。

抽象的に「前向きに話そう」と言っても意味がないので、自分がやっていることを3つ書く。

ひとつ、事実と解釈を分ける。何が起きたかと、それをどう受け取ったかを、口に出す段階で分ける。混ざったまま話すと、解釈のほうだけが強化されていく。

ふたつ、次に取れる行動を一つだけ決める。解決しなくていい。前進しなくてもいい。ただ、話し終わったときに「じゃあ明日これをやる」が一個あるかどうかで、その会話が沈むか浮くかが変わる。

みっつ、聞いてほしいだけなのか、解決したいのかを最初に言う。これは相手のためでもある。解決策を求めていないときに解決策を出されるのはしんどいし、解決したいのに共感だけ返されるのももどかしい。先に言えば、両方防げる。

言い換えると、語ること自体は制限しない。語ったあとに何が残るかだけを見る、ということだ。

周囲を選ぶこと

周囲を選ぶことは、自分の未来を選ぶことでもある、というのはその通りだと思う。

ただ、ここにも一つ但し書きがいる。

選べるというのも、ある程度は余裕の関数だ。付き合う相手を選べる立場にいること自体が、けっこう恵まれている。選択肢の少ない環境にいる人に「その人たちと縁を切れ」と言うのは、簡単だが無責任だ。

だから僕が言えるのは、自分についてだけだ。

沈んでいく会話に自分の時間を投げないようにしている。そして、誰かが沈みかけているときは、余裕がある側として一度は聞くようにしている。ただし、同じ話が三周目に入ったら、聞き方を変える。

共感はしたい。共沈はしたくない。その線を、自分の中に引いておきたいと思っている。