仕事でミスが起きたとき、僕はできるだけ「どうしたの」「なんでこうなったの」と聞くようにしている。

内心はけっこうムカついていることもある。それでも先に事実を知りたいからだ。

そして、そこで返ってくる答えが、

「○○さんがやってくれなかった」

「忙しかったので」

「聞いていませんでした」

だったりすると、正直、さらにムカつく。

長いことこれを「他責の人とは働けない」という話だと思っていた。でも最近、この整理は半分間違っていると考えるようになった。

他責の言葉は、たいてい重要な情報

冷静に読み直すと、さっきの3つは、実はどれも設計の欠陥を指している

「○○さんがやってくれなかった」→ 誰の責任範囲かが定義されていない。

「忙しかったので」→ 業務量に対して人が足りていないか、優先順位が共有されていない。

「聞いていません」→ 情報伝達の経路が機能していない。

つまり、僕がムカついていたその言葉は、組織の問題が現場から報告されている状態だった。

言い訳として処理してしまうと、その情報はそこで消える。しかも、言った側は「これを言うと不機嫌になる」と学習する。次からは言わなくなる。

そうやって、原因が見えない組織ができあがる。

自責を求めるのも、同じ罠

だから最近は、「自責で考えろ」と求めるのも危ないと思っている。

医療安全の分野は、この問題に長く取り組んできた領域だ。

かつては、事故が起きると当事者の不注意が原因とされ、当人が責められた。その結果どうなったかというと、報告が出てこなくなった。報告が出てこないので、同じ事故が別の場所で繰り返される。

そこから、個人を責めずに事実を集める方向に転換してきた。誰がやったかではなく、何が起きたか。そして、注意力に頼らない仕組みに変える。前に書いたチェックリストやダブルチェックは、その発想から生まれている。

自責を求める文化は、一見すると責任感があって立派に見える。でも実際には、都合の悪い事実を隠すインセンティブを作る。

僕が「他責の言葉にムカつく」のは自然な感情だが、それを部下に向けた瞬間、報告が減る。減れば、経営者である僕がいちばん困る。

聞きたいのは、次に防ぐ方法

じゃあ何を求めるのか。

「誰が悪いか」ではない。「自分が悪い」でもない。

聞きたいのは、次に同じことが起きないためには何を変えればいいか、それだけだ。

そして、その答えが「自分がもっと注意する」である必要はまったくない。

むしろ、注意で解決する話は再発する。答えが「手順を変える」「チェックのタイミングを変える」「そもそもこの作業をやめる」でいい。仕組みの話が出てきたら、そちらのほうが筋がいい。

前に、基準は意志ではなく設計で守られる、という話を書いた。ミスの再発防止も同じで、気をつけますで終わった案件は、だいたいもう一度起きる。

それでも残る、たったひとつのこと

そのうえで、元の直感が全部間違っていたとも思っていない。

環境や他人に原因があったとしても、自分が変えられるのは基本的に自分の側だけだ。これは事実として動かない。

だから僕が一緒に働きたいのは、自分を責める人ではなく、次に自分が打てる手を探す人だ。

この二つは似ているようで、まったく違う。

自分を責める人は、原因を自分の内面に置く。だから、反省はするが、状況は変わらない。

次の一手を探す人は、原因が外にあることを認めたうえで、それでも自分に打てることを考える。誰かに確認を取る、順番を変える、そもそもの依頼の仕方を変える。

前者は苦しいだけで、後者だけが再発を減らす。

ミスは、全然いい

最後に、これは何度でも書いておきたい。

ミスをする人は、まったく問題ない。人は必ずミスをする。僕もする。

問題は、ミスが報告されないことのほうだ。

だから、報告してきた人に対して不機嫌になるのは、経営者として単純に損だ。頭ではわかっているのに、いまだにムッとしてしまう。

そこはまだ、自分の課題として残っている。